2013年7月1日月曜日



フクシマへ行こう!被災地ツアー感想文・メール集


こんにちは すどうです
二年前からOB会で高橋晴さんに提案されていた
【フクシマへ行こう! 被災地バスツアー】に日曜日(6/23)~月曜日(24)参加しまし
た。
≪日程と行程≫
23日(日曜日)
東京を出発⇒車中、憲法学者「鈴木安蔵」と日本国憲法誕生秘話、映画「日本の青
空」の紹介(宮内隆さん) :飯坂温泉「一柳閣」泊
夜、宿のおかみさん 二本松から駆けつけた根本ケイ子さん(OBメンバー) 安藤勝夫
先生( 福島大学名誉教授・東日本国際大学教授)からお話を聞く

24日(月曜日)
飯坂⇒飯館村⇒南相馬市(小高 浪江)
ほっき貝を採る漁師・志賀さんに半日案内して頂く。

★常磐線・小高駅(工業高校・商業高校生の自転車置き場)
 ・沢山の自転車が置かれたまま…線量が高く引取りに入れない
★東電原発事故・津波で住人不在となった避難地区
 ・数メートルもの大きな堤防は無残に崩れ落ちている
 ・ヒトは自然の力を超える事は出来ない
★四月から昼間だけ入れるようになった浪江地区 夜間は滞在立入り禁止
 ・浪江地区は住民投票で「原発」を造らせなかったのに最も酷く放射能汚染を受け

★被爆牛・放浪牛の飼育を続け殺傷処分の命令に抵抗し脱原発を訴える『希望の牧
場』吉沢さん
 ・牧場で原発建屋の音を聞き噴煙を見ていた
 ・12日の爆発から一週間留まり大量の放射能を浴びた
 ・「原子力安全保安委」は真っ先に県庁に逃げた 浪江町の住民は何も知らされな
かった
 ・ドイツのように原発NOの選択すべき
 ・今49歳、残りの人生、全ての力注いで原発やめさせる
 ・今こそ団塊の世代が前面に立ち働くべきだろう
★仮設住宅
 ・入居者の気持ちに配慮し行くのは止めた 遠くから見てさえ
  劣悪な環境だとわかる
★映画『日本の青空』日本国憲法の鈴木安蔵生家を見た
 ・立派な家だった 塀・屋根瓦など地震で崩れ落ちていた
 ・遺族と連絡とり再建修理できたらと志賀さん言われる

≪わたしの思ったこと≫
  目の悪い私でも、大惨事を起したあの建屋や鉄塔がはっきり見えました。
 人の手の入らなくなった田や畑は雑草に覆いつくされ、
 流された漁船や車・屑鉄が広大な土地の至るところに転がっていました。

 家々の土台は生い茂ったセイタカアワダチソウなどに隠され、
 二年三ヶ月前まで人びとが暮らしていたとは想像できない光景でした。

 東北自動車道での帰り道、東京が近づくにつれ、
 まるで何事も無かったかのようなビル群の林立…華やかな照明…街のイルミネー
ション…
 たった数時間前に目の当たりにした被災地とのあまりのギャップに頭と心が受け入
れできません!!!
  こんな恐ろしい『原発』は日本から絶対無くさなきゃいけないんだ!!
 世界中から無くさなきゃいけないんだ!!
 と、心底怒りがこみ上げてきました

 あれから一週間たちますが、わたしの頭には無惨な光景がはっきり浮かんできます
 わたしの生きているかぎり きっと消えないでしょう
   再稼働?とんでもないです!
  安倍首相の海外原発セールス?  全く許せないです!!
 まだ、自分の眼で見ていない人達に ぜひ自分の目で見ることお勧めします

≪話されたこと 心に残った言葉≫
◆転校先での放射能差別・いじめ・受け入れ拒否される子どもたち
◆婚約破棄
◆家族ばらばら別居から離婚へ
◆外遊び出来ない子どもの健康状態 心身の障害
◆精神を病む人 アルコール・パチンコ依存症
◆生きている意味を見出せない
◆安住の地はお墓と遺書を残し100才超えたお年寄りの自殺
◆お年寄りにとって仮設は住まいではなく収容所である
◆補償金で住民同士の分断が深刻
◆福島ナンバーへの嫌がらせ(爆薬投げ込み 傷つけ切り裂かれる)
◆猪・ヤマメ・岩魚の異常繁殖
◆留学生が戻らない
◆旅館は客が来ない 廃業で120件⇒40件になった
◆牛が野生化 ガラスを無視し進入 家屋めちゃめちゃ
◆国の基準のまやかし⇒一時間あたりを基準とすべき
◆チェルノブイリとほぼ同じ線量である
◆被ばく牛は 生きた証人である 生かせて 放射能の遺伝・研究に役立たせる
◆おそらく双葉・浪江は再生されないだろう
◆生きている間に漁業はおそらく出来ないだろう
◆高市議員の『死んだ人はいない』暴言
◆孫請けどころか 7次までの下請けで 中間搾取で肥え太る企業

≪最後に≫
この企画を提案してくださった 高橋晴さん
長時間の運転を無償でしてくださった 伊藤隆志さん
宿の手配、レンタカーの手配、参加呼びかけ、財政の心配、等々
裏方一切の準備をしてくださった 手塚さん杉目さん
本当にありがとうございました。
ぜひ ぜひ 生協の沢山のなかまに行ってもらいたいですね。
                                             須藤知子




23.24と東大生協OB会有志を中心とした福島被災地ツアーがあり、23日の宿泊先である飯坂温泉から合流した。参加者の20名は、運転手や事務局を含めて全員が手弁当で、東京からの2日間のバスや宿泊代を含めて1万1000円という格安であった。宿の「一柳閣」は、地震によって床の傾斜など損傷はあるが、どうにか工夫して営業していた。一番の問題は放射能汚染の影響で、福島駅で0.2から0.3μSv/hの放射能汚染は、20分ほど離れた飯坂温泉駅前でも同じ程度あり、さらに歩いていると徐々に高くなり、何と2μSv/hにもなる場所があって驚いた。ホテルの場所はいくらか落ち着いたが、それでも0.4ほどあり、年間では4mSvとなりチェルノブイリであれば放射線管理区域となる。
 夕食の前に学習会の時間があり、地元の「九条の会」から講師を招き現状について報告してもらった。その場で私の方から、昨日からの子ども保養プロジェクトなどについて簡単に紹介させてもらった。震災関連死の話もあったので、直近のデータで2688名を伝えた。

 24日はラジオ体操をした後で8時に宿を出発し、一路浜通りの南相馬市へ。福島市から川俣町などを過ぎ、山を超えると南相馬市に入る。途中で放射能の空間線量は、高くなったり低くなったりする。道路や田畑などに、放射能を除染したゴミを入れた大きな黒いフレコンバッグが並びだし、持って行き場所のない事や、除染の手抜きの問題や、手当を下請けから孫請けへとピンはねする構造などについて私の方でマイクを使い解説させてもらった。

 南相馬市の役場で現地のガイドである漁師さんが同乗し、線量の高い小高区から浪江町へと案内してもらった。小高は出入りが昨年から自由になっているが、駅前の商店街に人影はまったくない。浪江町の請戸漁港の入口の道には、ガードマンがいて一般人は立ち入りが禁止されている。ガイドが対応し、ナンバープレートを記入して許可を受けて入る。請戸集落で全ての家屋が津波にやられ、双葉郡で一番多い120名もの方が亡くなるか行方不明となっているそうだ。ここはまだ放射能汚染が0.5前後と高く、壊れた家屋や転がっている車なども3・11のままで、まるで時間が止まっているかのような錯覚になった。ガレキや生い茂る雑草の下に、まだ沢山の遺体があるのだろう。いたたまれない気持ちになった。道路脇の一角に観音様を中心とした小さな慰霊碑があり、皆で合掌した。せっかくなのでにわか坊主となった私は、28文字という一番短いお経である「四句請願」を読経させてもらった。南の方向には、エフワン(東京電力福島第一原発)の高い煙突がくっきりと見える。(写真の右上のかすかに見える数本の煙突)
 
 最後の訪問先は、同じ浪江でも山裾にある「希望の牧場」である。3から4mSv/hと極めて高く、牛や乳を出荷できないが、それでも金でない生き方を求めて300頭の牛を飼育している。浜通りでも唯一原発に反対してきた浪江町が、すでに町役場は二本松の仮役場へ移るなどして多くが避難し、とんでもない苦難を強いられている。59歳の牧場代表の吉沢さんは、「20年かけて原発異存の社会を変える。今私たちが立ち上がらなければ、いつ誰がやるのですか」と熱く語っていた。まさにそうである。

 帰り道がまた大変であった。浪江からいわき市へ抜ける国道6号線は途中で封鎖されておりUターンし、南相馬から山を超えて二本松に出て東北自動車道を使い、都内に戻ったときは夜の10時前になっていた。宿泊先では左右からのイビキで寝られず、長距離のマイクロバスで疲れたが有意義な旅であった。復興支援の継続と同時に、自らの暮らし方や生き方が問われている。
西村一郎
 

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